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絵とは何か。 両巨匠の交友は涙ぐましく、畏ろしい。 ― 野見山暁治 20世紀絵画を代表する巨匠ピエール・ボナールとアンリ・マティスの深く、静謐な友情を明かす書簡。 二人が50代からボナール最晩年まで交した手紙62通(1925〜1946年)を紹介する本書は、1991年フランス、ガリマール社からの出版以来、多くの日本の美術関係者、愛好家からその日本語版を長年待望されてきた貴重な書簡集の翻訳本。 二人の親密で極めて個人的な文通は、専門家でなくとも非常に興味深く、訳者山内由紀子氏のあとがきがその意義を記す――「たっぷりと震えを帯びた描線」と「過多」な画面に対し、手紙では、簡潔な文章の中に時折、パンチの効いたユーモアと皮肉を光らせるボナール。かたや、「信号」のように一瞬に眼に飛び込んでくるほどに「単純化された色面」のマティスは、逆に、冗長なほどに念入りに、時におせっかいのような手紙を書く。フランス絵画の巨匠二人それぞれにおける、絵と文の対比。そして、ボナールとマティス、二人の人格の対比、という二つの比較は、示唆に富み、純粋に楽しい。 収録する直筆書簡、ポートレート、関連する作品図版、さらにはボナール没後の評伝記事に怒ったマティスが、抗議の殴り書きをした伝説の切り抜き記事を含む貴重な資料の数々を通じ、二人の魂の交歓をより身近に触れられる。 解説者の一人、美術史家アントワーヌ・テラス氏はボナールの大甥。日本の津々浦々の美術館で日々、愛され続けるボナールとマティスの作品を、さらに深く鑑賞するためのきっと一助となる貴重な往復書簡集。 また本書には、今日の日本を代表する洋画家、野見山暁治氏に言葉を寄せていただいた。フランスの両巨匠の書簡をどう受け止めたのか、氏の画家としての想いは心に迫る。 <目次> ピエール・ボナール|アンリ・マティス往復書簡 1925-1946 「書簡に寄せて」/ジャン・クレール 「マティスとボナール:四十年の友情」/アントワーヌ・テラス 野見山暁治 訳者あとがき 著/ピエール・ボナール、アンリ・マティス 解説/ジャン・クレール、アントワーヌ・テラス 訳/山内由紀子 188×128mm 並製本 160頁(図版37点) ◆ピエール・ボナール 1867-1947。パリ郊外フォントネ=オ=ローズに生まれる。大学は法学部へ進学しながら、画塾アカデミー・ジュリアンで学び、ドニらとともに「ナビ派」を結成する。「日本かぶれのナビ」と呼ばれるほど浮世絵に心酔し、まずはポスターや装飾美術で頭角を現す。日常の身近な主題を煌めく色彩で描き続け「親密派(アンティミスト)」と称された。南仏ル・カネにて没。 ◆アンリ・マティス 1869-1954。フランス北部のル・カトー=カンブレジに生まれる。法律事務所に就職した翌年に虫垂炎で療養するうちに、画家になることを決意。ギュスターヴ・モローに師事。1905年のサロン・ドートンヌに出品した作品の大胆な色彩表現からヴラマンク、ドランらとともに「野獣派(フォーヴ)」と評された。色彩の純化と、線の単純化を追求し、晩年は切り紙絵の世界へ到達した。南仏ニースにて没。 ◆ジャン・クレール 1940年、パリに生まれる。作家、エッセイスト、美術史家。ポンピドゥー・センター等の学芸員を歴任したのち、1989年から2005年までピカソ美術館館長、2008年、アカデミー・フランセーズ会員に選出された。 ◆アントワーヌ・テラス 1928-2013。パリ郊外ヴィルモンブルに生まれる。美術史家、評論家。ピエール・ボナールの大甥。 ◆野見山暁治(のみやまぎょうじ) 1920-2023。福岡県穂波村(現飯塚市)に生まれる。東京美術学校(現東京芸術大学)卒業後、旧満州に出征。1952年から12年間フランスで描き、具象と象徴の境界を超えた心象風景に独自の画境を開く。サロン・ドートンヌ会員、『岩上の人』で安井賞。帰国後は東京芸術大学で教える一方、戦没画学生の遺作収集や長野県の「無言館」開設に尽力し菊池寛賞を受ける。『パリ・キュリイ病院』や日本エッセイスト・クラブ賞の『四百字のデッサン』など、著書も多数。2014年、文化勲章受章。2023年6月22日、福岡市にて永眠。 ◆山内由紀子(やまうちゆきこ) 1969年生まれ。英語・仏語翻訳家。東京大学教養学部フランス科卒業。ニューヨーク州立ファッション工科大学卒業。長年の会社勤務の後、現職。東京、神奈川の他、パリ、ルクセンブルク、ニューヨークで生活経験がある。訳書に『ひとりヴァイオリンをめぐるフーガ』(藤原書店)。
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