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植田正治が「神様のような存在」と綴った伝説の写真家、決定版写真集。 大正末から昭和初期にかけて一世を風靡した芸術写真は、福原信三、福原路草などで広く知られるが、塩谷定好はその草分け的存在であり、同郷の植田正治にとっては「神様のような存在」であった。 塩谷定好は、大正期に大人気となったポケットに収まる小さなカメラ・ベス単(ヴェスト・ポケット・コダック)を手に、独特な煙るようなソフトフォーカスの作品を生み出し、独自の手法で美しい印画を作り上げて、写真界で高い評価を受けていた。 本書は、遺族の手で大切に保管されてきた、極めて保存状態のいいプリントの中から選りすぐった、ベストセレクションとして纏める。 芸術写真の人気が再び高まる昨今において、塩谷作品の高質で品格のある美の世界は、時代を経てもなおモダンで、普遍の魅力を放つ。また、プリントと共に大切に保管されていた厖大な量の塩谷資料(自身が立ち上げたベストクラブ(後に写研会)を母体として、生涯ほとんど休まず精力的に活動した記録、写真雑誌など)を反映。その中には戦期に撮影がままならなくなる中、郷里赤碕から戦地に向かった若者へ向けて故郷の写真を送るなど、作品からも伺える慈愛に満ちた行動の記録なども残されている。 深い洞察と精神で「命」を捉えた人間・塩谷定好の生涯、精神、写真家としての活動の全貌、ひいては日本写真の歴史を知る上でも貴重な一冊となる。 <目次> 第一章 村の情景 第二章 子供の情景 第三章 海の情景 第四章 花の情景 塩谷定好写真館 鑑賞する「写真」/塩谷晋 夢の翳 塩谷定好1899-1988/蔦谷典子 TEIKO ALBUM 塩谷定好年譜 塩谷定好文献目録 塩谷定好作品目録 著/蔦谷典子 写真/塩谷定好 B5判 並製本 240頁(図版136点) ◆塩谷定好(しおたにていこう) 1899(明治32)年10月24日、鳥取県東伯郡赤碕町(現・琴浦町)生まれ。 1988(昭和63)年10月28日、同地で89歳で死去。 廻船問屋を営む塩谷家長男として生まれる。 塩谷家四代目・塩谷孫平(1846頃〜1881)は北前船蛭子丸で北海道まで行き、飢饉の折には住民に無償で食料を配り助けたと言われるが、同地で35歳の若さで病没。後を継いだ五代目・久次郎(1859〜1936)は、赤碕の収入役・助役・町長の三役を務め、赤碕駅を設置、小学校新築、通学路設置に尽力した功労者。写真にも興味を持ち、京都の写真館で写真掛軸を仕立てる。 子供の頃から絵が好きで上手かった定好は、13歳の頃、六代目の父親からイーストマン・コダック社の「ヴェスト・ポケット・コダック」を与えられ、写真表現に出会う。 1913(大正2)年6月22日、鳥取で芸術写真の愛好家が集い「写真クラブ」を結成。 その後、正式に「光影倶楽部」として発会される。定好は 1921年3月には例会に出席。 光影倶楽部を率いていた西郷北梼(本名:金居乙恵)の期待を受け交流をするようになった。 定好は倉吉農業学校卒業後、1919(大正8)年、20歳を前に会員88名で「ベスト倶楽部」を創設し、芸術写真を追求し、終生山陰の風景や人々を撮り続けた。 やがて時代は変わり、新興写真が勃興。戦後にはリアリズムが台頭するなど、写真表現の変遷によって定好の存在は忘れられていく。 そのなか、同郷の植田正治が再評価に奔走。 1979(昭和 54)年、80歳となった定好は、日本の写真史を紹介した展覧会「日本の写真1848年から今日まで」に、細江英公、奈良原一高とともに「1900年代の8人の巨匠」の1人として紹介され、50点近くを出品、3年以上をかけてヨーロッパ10カ国12都市を巡回。塩谷作品は大変な注目を浴びた。 その3年後、ドイツの写真見本市・フォトキナの展示でアンセル・アダムス、ルイジ・ギッリら 17名とともに出品され、最高賞のフォトキナ栄誉賞を受賞。 また、同年、アメリカ、フランスの写真雑誌で特集が組まれ、翌年にはアメリカでの第2回国際編集デザイン展で優秀作家賞を受賞。 定好が亡くなった1988(昭和63)年、ヒューストン美術館での展覧会に招待出品、その後に開催された個展は、1990 年までアメリカ国内の7会場を巡回。海外で高い評価を得ている作家である。 《思い出の落日》1933年 《松江風景》1929年 《村の鳥瞰》1925年 《海辺小景》1928年 《浴場小景》1925年 《少女》1937年 《波止場小景》1929年
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